「歌月十夜」(present by TYPE-MOON) シナリオ 『「夢十夜」翡翠ちゃん、反転衝動!』 ----------------------------------------------------------------------------  ……夢。  ……それは都合の良いもの。 □志貴の部屋  朝……一日の始まり。  寝不足だったり、外が寒かったりすると色々大変だが、今日の朝は特に問題ないようだ。窓から差し込んでくる朝日にかげりは無く、空調の効いた室内は非常に快適だった。  それに、なにより……誰の干渉も無く、自然に目覚めたというのが一番気持ちいい。  有間の家にいたときは毎朝目覚まし時計のけたたましい叫びによって強制的に覚醒させられ、遠野の家に来てからは———彼女には悪いのだが———毎朝翡翠に起こされている。  だが、今日は……。  時計を見ると、針はまだ六時を回ったばかりだ。 この時間に起きれば、秋葉の奴の機嫌も良いはずだ。  機嫌の悪い時の秋葉はお世辞にも友好的とは言えず、どれほど贔屓目に見ても近づきたくない相手ベスト5から外すことはできない。  だが、機嫌さえ良ければなんの問題もない。礼儀正しく、面倒見の良い実に良き妹だ。 (けど……)  今朝はなんとなく、一人でゆっくりしていたかった。  どうせ、しばらくすれば翡翠が来て、起きている俺を見て一瞬驚いた顔を見せてくれるのだろうが……まぁ、その時間までベットの上でボーっとしているのも悪くない。 (あぁ……なんていい朝なんだろう……)  遠野家に戻ってきてから忙しい日々が続いた所為もあってほとんどゆっくりと出来なかっただけに、今朝のこの清々しさはもっとじっくりと堪能したいくらい気持ちの良いものだった。  だが……  ガチャーーーンッ!!  清々しい朝は……気持ちいいほどあっさりと潰されてしまったのだった…… □遠野家居間 「なんの音だよ……」 【秋葉】 「兄さんっ!?」  至福の一時を妨害されてすこし憂鬱になりながらも、まぁいつもの事だ……と諦める。  自分で言うのはなんとなく不本意だが、最近ではむしろこういうせわしない日々の方が自分にはあってるのではないだろうかと思う事もあるほどだ。……ものすごく不本意ではあるが……。  そんなわけで、しぶしぶ自室から出て(当然、私服に着替えてからだ。以前パジャマ姿で外へ出たら秋葉の奴が顔と、ついでに髪の毛まで真っ赤にして怒ったからな)居間へたどり着いた俺はソファーに座る事も無くつったっている秋葉に声をかけた。  普段なら優雅にお嬢さまっぽく———いや、実際にお嬢様なんだけど———挨拶をしてくるはずの秋葉が今朝はなにやら複雑な表情をしている。 【秋葉】 「兄さんっ!あなたいったい何をしたんですかぁっ!!」 「どうしたんだよ?」 「とぼけないでください!あなたって人は……翡翠にいったい何をしたのですかっ!?」 「何って……ナニ?」 【秋葉】 「妹パンチ!」 「ぶはぁわぁっ!」  何やら絶妙に腰の入った右ストレートが俺の鼻に恐ろしいほどのスピードで綺麗にクリーンヒットしてくれた。 「……はなぢ出てふ……」 【秋葉】 「兄さんがくだらないシモネタなんか使うからです!!」  お嬢様育ちの秋葉はそういうネタに対する免疫がないのか、顔を真っ赤にさせている。その表情は恐ろしいながらも、なかなか可愛かったりする。 「とにかく、事情を説明してくれよ……」 【秋葉】 「それはこっちの科白です! 一体どんな事をすれば翡翠をあそこまで変貌させられるんですか!?」 「さっきから翡翠、翡翠って……翡翠がどうかしたのか?」 「どうしたもこうしたも……あぁっ! 口で説明するよりもあれを見せた方が早そうですね! そこで待ってなさい!」  いったいどうしたって言うんだ? こちらは状況すらぜんぜんわかっていないのだが……どうやら秋葉自身ひどく混乱しているらしくこちらの意見を聞くだけの余裕がないようだ。  居間を出て台所の方へ進んでいく秋葉の背中を眺めながら、俺はすこしでも状況を知るために居間の中を見渡した。 □遠野家居間  なるほど、いままで気づかなかったのだがなかなかひどい状況だ。  まず、居間に置かれたソファーがヘコんでいる。どうやら中身がくり貫かれているらしい。その証拠に、ソファーのすぐそばにその中身があからさまにぶちまけられている。さらにテーブルの上。秋葉のと俺用なんだろうティーカップが粉々に砕け散っている。壁にかかった高そうな絵画には『ひげ』という謎のメッセージ。窓ガラスには血……のような色の赤いペンキで『志貴 LOVE』と書かれている。 「……これは……秋葉の奴……ずいぶん独創的な模様替えをしたもんだな……」 【秋葉】 「妹キック!」 「げふっ!」  これまた素晴らしい角度でわき腹につま先をえぐり込まれた。 「後ろからとは……卑怯な……」 【秋葉】 「だまりなさい! なにやら壮絶な誤解があるようだから言っておくけど、居間をこんなふうにしたのは私じゃありません!」 「わかってるよ。ちょっとしたアメリカンジョークじゃないかぁ……」 【秋葉】 「……兄さん。私、今ちょっとだけ本気であなたのその能天気さを『略奪』してみたくなりました……」 「ああ。そしたら、お前ももうちょっと温和な性格になれるかもな♪」 【秋葉】  ぶわぁっ! 「うわぁぁぁっ! 冗談だ冗談! 本気で赤髪になるなっ!!」  どうやら、冗談の通じる状況ではないらしい。  早く話を進めたほうが身の為だな。 「で? 俺に見せたいものってなんだよ」 「……これです」  なにやら納得いかない様子だったが、とりあえずどちらが優先すべき事なのかちゃんとわかっているようで秋葉は憮然とした表情のまま『それ』を俺の目の前にひきずって来た。  どさっ 「こ……琥珀さぁぁぁぁぁぁぁああああああん?」  見なれた割烹着姿。それは間違いなく琥珀……いや、いまは七夜さんだ。ならば、なぜ最後が疑問形なのかというと……。 「ひどい……」 「ええ……」  七夜さんはまるで、バレットでさんざんいたぶられた挙げ句、ハートブレイクショットで動きを止められた後に、ガゼルパンチからデンプシーロールにつなげられ、最後にチョッピングライトでマットに叩きつけられたボクサーのようにぼろぼろだったのだ。 「……秋葉……なにもここまでしなくても……」 【秋葉】 「妹目潰し!」 「うぎゃぁぁぁぁぁっ!」 【秋葉】 「私がこんな事するわけないでしょう! 翡翠の仕業ですよ……って、聞いてるんですか!? 兄さん!」  どうやら、我が妹には目潰しを食らって苦しんでいる兄をいたわるという、ごく常識的な思いやりというものは存在しないようだ。 「翡翠がって……どういうことだよ」 「だから、翡翠がこ……七夜をこんなふうにしたんです」 「あの翡翠が……?」  考える……翡翠が七夜を捕まえてさんざんいたぶり尽くした挙句、おもむろにその左胸へコークスクリューパンチをぶち込み、さらに身体を8の字に動かしながら左右からのラッシュ!そして、とどめに上から叩きつけるような右!! □遠野家居間 「……ミ……ミラクル!」 【秋葉】 「なに訳のわからん感想を言ってるんですか!」 「いや……なんとなく……」 「はぁ……」 「……で? 七夜さんをこんなにしたのは、ホントに翡翠なのか?」 「間違いありません。今日の翡翠は……その……どこか変なんです」  一般的に言えば、翡翠はいつだって“変”に分類される人種なのだが……どうやらそこは突っ込まない方が良いようだ。 「わかった。七夜さんをこんなにしたのは翡翠なんだな? ……で……結局のところなんで七夜を俺に見せたんだ?」 【秋葉】 「兄さんに、自分の罪をよぉ〜〜〜くわからせるためですわ」 「罪って……俺はなにもしてないぞ?」 【秋葉】 「まだいいますかっ!」 「ホントになにもしてないってば〜!」 「志貴……」 「ほら、翡翠も弁護してくれよぉ〜」 【秋葉】 「……ひ、翡翠……」 「……志貴……」 「あ……」  秋葉のひくついた顔に……いつのまにか、翡翠が居間に姿をあらわしていたことに気がついた。 「翡翠……」  秋葉の戸惑いようから嫌な予感を感じ、彼女の様子をよ〜く眺めて見る。 【翡翠】  服装はいつもと同じやや野暮ったいメイド服。その分かり難い表情にやや厳しい目つき。そこに不自然さはまったくない。  つまり、どこからどう見ても普段の翡翠そのものなのだ。 「……おい、秋葉。あれのどこがどう変なんだ?」  むしろお前の方が……という言葉はギリギリの所で飲み込む。 【秋葉】 「見た目にごまかされてはダメです! あれの恐怖はまだこれからですわ……」 「恐怖って……」 「……志貴……」 「え?」  呼び捨て〜〜〜!?と、そのことに驚くよりも早く翡翠が動いた。  翡翠は俺の身体に抱きつくと、子猫のように俺の胸に顔を摩り付け頬を赤らめながら呟いた。 【翡翠】 「げっちゅ♪(はぁと」 「げ……激萌え〜〜〜!」  いや、まじで激萌えっすよ! すりすりと柔らかいほっぺたが俺の胸にその温もりを伝え、恥ずかしげな……しかしそれに負けないくらい嬉しげな表情が脳天を貫く……まさに、萌え!! 「翡翠〜〜〜!」 【秋葉】 「妹ひざかっくん!」 「みぎゃぁぁぁっ!」 【秋葉】 「兄さん! あなたはいったいなにをしているんですか、はしたない!」 「……妹ヨ……一つお兄ちゃんからの忠告だ。ひざかっくんは膝の関節に対して平行方向に行うものであって、けして垂直方向へやっちゃいけないぞ……」 【秋葉】 「大丈夫です。膝はそんなにやわじゃありません」  なんの根拠も無く、そう言い放つ秋葉。  自信たっぷりな秋葉は実に秋葉らしくていいのだが……今回ばかりはちょっと勘弁して欲しかった。 【翡翠】 「秋葉……私の志貴に手を出さないで」 【秋葉】 「…………」 「…………」 【秋葉】 「私の……ですってぇ?」 「私のよ」 「へぇぇぇ……」 「や、やめろよ!秋葉!」 「兄さんは……」 「志貴は……」 【翡翠】 【秋葉】 『黙ってて!』 「……うぃ」  二人の形相に、俺は彼女達を制止することをあっさり諦めた。  かっこう悪いなんていうなかれ、力を全開にして真っ赤に染まった秋葉と無言の重圧を持つ翡翠の視線。それらがお互いの相乗効果を得て空間をゆがませてしまうのではないだろうかと思うほどの強力な邪眼となっている。はっきりいって、その破壊力は慣れない者が見たら精神を吹き飛ばされてキ○○イになっちゃってもおかしくないほどなのだ。 【翡翠】 「……この小姑が……うぜぇんだよてめぇは」  う〜ん、なかなかワンダホーな言葉遣いですね、翡翠。でも、無表情のままで言うのはどうかと思うよ……。 【秋葉】 「翡翠……姉妹そろって私に刃向かうのね、あなた達は……」  とことん部下に恵まれないね、秋葉……。スタッフサービスに電話する? 【翡翠】 「……まな板のくせにでしゃばってんじゃね〜よ……」 【秋葉】 「うふふふ……お馬鹿なメイドにはちょっと教育が必要なようですね♪」  うぅ〜ん、良い感じに雰囲気がやばくなってきた……♪  本気で、そろそろとめないと血をみそうだな……。  こういうときは……。 「……助けて、マミ〜!」 「呼ばれて飛び出てじゃジャジャジャ〜ン!」  がちゃ〜〜〜ん! 【シエル】 「ラブリーキューティーなメガネっ子(選択肢有り)! 心清く、お顔も清く。賢く美しいお姉様!天然ボケもご愛嬌! カレーと遠野君のためなら……命懸けます!!」 「シエル先輩!」  ナイスなタイミングで登場してくれたシエル先輩に俺は思わず歓声を上げた。  しかし、その他二人は…… □遠野家居間 【翡翠】 「……カレーのために命を懸けるなんて……安っぽい女……」 【秋葉】 「どうでも良いですけど、今割ったガラス代……ちゃんと払ってもらいますからね?」  いい感じに冷たい反応でしたとさ……。 【シエル】 「……ひ、ひどい……」 「まぁまぁ、シエル先輩。とにかく、良いタイミングで来てくれましたよ!」 【シエル】 「あら、いいんですよ〜。遠野君のためならえんやこらです!」 【翡翠】 「……ちっ、年増まででしゃばってきやがった……」 【シエル】 「……なにか言いましたか? 翡翠さん?」 「………」 「………」 【翡翠】 「ちっ! 年増まででしゃばってきやがった!って言ったの」 「えぇ! 言い直すの!?」  普通は、なんでもない……とかなんとかいってごまかすだろ……。 【シエル】 「……年増って……どういう事ですか?」 【翡翠】 「読んで字の如し。基本的に変態吸血鬼どもがメインのこの世界であんまり目立たないけど、志貴の高校の先輩とほざきながらも実際二十歳超えてるし」  ビシッ  空気が……凍った……。  あぁ、神様仏様! だれでもいいですから、おねがいします!どうか翡翠の口をふさいでください!  我が家が戦場になる前に……。 【シエル】 「翡翠さん……あなたは言ってはならない事を言ってしまいましたね……」 【翡翠】 「サバ読んで歳をごまかしてファンを集めてるようなメガネ“おばさん”のくせに」 「コロス……」 「シエル先輩まで壊れちゃってどうするんですか〜!」 【シエル】 「はっ! そうでしたね……今は翡翠さんの症状についての説明を……」 【翡翠】 「説明好きはおばさんの証拠……」 「翡翠……ちょっと黙ってなさい」  ごすっ 【翡翠】 「……謀ったな……シャア!」 【秋葉】 「シャアじゃないし、謀ってもいません。とりあえずお眠りなさい」 「ぐぅ……」 「秋葉、おみごと♪」 【秋葉】 「なんとなく、最初からこうしていればよかったような気がしますわ……」  それは言わないお約束だ。 【秋葉】 「で? 翡翠があんな風になったのは、どうしてなんですか?」 【シエル】 「はい。おそらくはあれも一つの反転衝動ではないのでしょうか?」 「反転衝動って……シキのあれですか?」 「ええ。おそらくは」 「でも! 翡翠は遠野の血は引いてませんよ!」 「反転衝動はなにも遠野の専売特許じゃありませんよ。ある程度異端の血を受け継いでいれば誰にでも起こりうる事です。ただ単に、遠野家がそれに陥りやすい血を引いていただけの事です」 「たしかに、翡翠の家も異端の血を引いていますわね……」 「そんな……じゃあ、翡翠も血を吸いたくなったりするのかな?」 【シエル】 「あれは他人様の体液を飲まなきゃやってられないような汚らわしい変態生命体の特性です。翡翠さんの家はそういう血は流れていないですよね?」 【秋葉】 「……なにかすごく気になる発言があったような気がしますが……まぁ、とりあえずその質問にはYESです」 【シエル】 「では、翡翠さんが血を吸ったりする事はないはずです。普通の人間には他人の血を吸いたいなんて言う外道な欲望はないはずですから。……普通の人間には」 【秋葉】 「……何故私を見るんですか? 教会の犬(シエル)さん」 「あぅあぅ……」 【シエル】 「私は教会という組織に属していますが、べつにこびへつらっているわけじゃありません。犬畜生にも劣る蚊の親戚である秋葉さんにそんなこと言われるなんて心外ですね」 「自分の力もわきまえずにキャンキャン吠えるあなた犬と呼んで、何がおかしいというんですか?」 【シエル】 「……一度……ゆっくり話し合う必要がありそうですね、妹さん」 【秋葉】 「ええ。でも、話し合う機会は一度で結構です。すぐに二度と妹だなんて呼べないようにしてあげますから……」  二人の間にバチバチと火花が飛ぶ。その光景はまるでメガネ狸と赤い狐……じゃなくてコブラとマングースの対決のようだ。  しかし、翡翠の事ばかり考えていたのでいままで気づかなかったけど……そういえば、よく考えたらこの二人って結構相性悪いんだった。なにせ片や異端の中でもエリート中のエリートである遠野家の当主。片や教会の中でも異端を狩る存在である埋葬機関のハンター。この状況はまさに辞書に載せたいほど美しい“一触即発”な状況だった。 「ま、まって! とにかく今は翡翠の事を先になんとかしようよ!」 【シエル】 「遠野君がそういうのなら……」 【秋葉】 「兄さんがそういうなら……」 「ありがとう。で? どうすれば翡翠を元の状態に戻せるんですか?」 【シエル】 「そうですね。とりあえず何故急に……っと、いままでこんな事なかったんですよね?」  頷く。  こんなことが初めてでなかったら、とっくに俺の命は燃え尽きていることだろう。 「では、やはり何故急に反転したのか、その原因を突き止めるべきでしょう」 「原因……ですか?」 「はい。反転衝動を収めるだけならば簡単なんですけど、その原因を突き止めて根本から“治療”しないと何度も繰り返す結果になりますから。どっかの変態吸血種が延々と自分の付き人の血を吸いつづけたのと同様に」 【秋葉】 「なっ! 仕方なかったのよ!あれは琥珀の罠で……」 【シエル】 「誰も秋葉さんの事だとはいってませんよ?」 【秋葉】 「うぐ……」  なんか、今日のシエル先輩はやけに絡むなぁ。  もしかして、翡翠におばさんって言われた事結構引きずってるのかも? 【シエル】 「……遠野君。今なにか変な事考えてませんでしたか?」 「欠片ほどにも!」 【シエル】 「良かった。もしかしたら遠野君、自殺願望でもあるんじゃないのかと思って心配しました♪」  この緊張感が永遠に続くなら、自殺も望むかもしれないですけどね。 【シエル】 「さて、話を戻しましょう。翡翠さんの反転の原因ですけど……心当たりは?」 【秋葉】 「心当たりも何も、原因はすでにわかっています!」 「と、いうと?」 【秋葉】 「兄さんです! 兄さんが翡翠にひどい仕打ちをしたに違いありません!」 「秋葉……お前は自分の兄をどんな風に見てるんだ……」 【秋葉】 「みたままをいったまでです!」 「あら? 遠野君ってけっこう私生活では外道ちゃんなんですか?」 「ちがいます! 秋葉の誤解です!」 「でも、翡翠はほとんど兄さんにつきっきりなんですよ?翡翠になにかあったとすれば、それは兄さんに関係がある事に違いありません!」 【シエル】 「なるほど。たしかに正論ですね」 「シエル先輩まで……そんな生ゴミを見るような目でみないでください!」  まずい、このままじゃ自分付のメイドをぶっ壊しちゃった『メイドマーダー志貴』として変態の仲間入りをしてしまう!  なんとか弁明しようにも、秋葉はすでに俺の事を完璧に疑ってかかっているし、シエル先輩は「志貴君の意外な一面を見ちゃいましたね」なんて一人で納得してるし……どうしたらいいんだ? 「呼ばれてないのにジャジャジャジャ〜〜〜ン!」  がちゃ〜〜〜ん! 「へ?」 「なんですか!?」 「……げっ」 【アルクェイド】 「天下無敵の吸血種! 金髪美白の超絶美人! 人気があっても胸が無いお馬鹿連中なんて敵じゃない!  悩殺笑顔で志貴のハートを……狙い撃ち♪♪」  とつぜん窓を割って登場した謎の女性……ずきゅ〜〜〜ん!という効果音が聞こえてきそうなほどみごとなポージングだった。  しかしながら……。 □遠野家居間 「………」 「………」 「………」 【アルクェイド】 「……なんで黙るの……?」  不思議そうに首をかしげる女性に対し…… 『……ってか、あんた誰?』  ものの見事に、俺と秋葉の声がかぶった。 【アルクェイド】 「し……しまったぁぁぁぁぁっ! 遠野家ルートだとあたしの出番ないんじゃん!!!」 【シエル】 「何を訳のわからない事を! あなた! 不法侵入ですよ!」 【秋葉】 「そういう意味では、シエル先輩も不法侵入ですよね?」 【シエル】 「きっと気のせいです♪それに私は知り合いですが、“あれ”はまったく赤の他人ですよ」 【アルクェイド】 「シエル! 赤の他人だなんて酷いよ! あたしとあなたの仲じゃないの〜!」 「……シエル先輩、あの人しってるんですか?」 【シエル】 「いえ、しりません!」 【アルクェイド】 【アルクェイド】 「こらァ〜うそつくな〜!」 「でも、向こうは知ってるみたいですよ?」 【シエル】 「え、えっと……あれは……その……そうです! きっと昔飼ってた猫のタマです!」 【アルクェイド】  タマ……  猫……  白い…… 『……なるほど!』 【アルクェイド】 【アルクェイド】 「こら〜! 納得するにゃ〜!!」 「猫のタマなら不法侵入もしかたないですね」 【秋葉】 「まったく、可愛げのない猫ですこと」 【アルクェイド】 【アルクェイド】 「猫って言うにゃ〜〜〜!  それと、妹が可愛げないって言うな〜〜〜!」 「おだまりなさい! とにかくシエルさん。飼い主の責任として今すぐあの無礼な猫を放り出してください」 【シエル】 「わかりました。ほら、タマ……早く成仏しなさい」 【アルクェイド】 【アルクェイド】 「勝手にコロスにゃ〜〜〜っ!」 【鹿】 「シカっ!!」 「うにゃぁぁぁぁぁっ!」 □遠野家居間 【シエル】 「任務完了です♪」 「シエル先輩……今どこからともなく野生動物が……」 【シエル】 「……語り得ぬ事には、沈黙せねばなりません」  それっぽい事言ってるけど、ようするに自分でも何なのかわかってないってことじゃないのだろうか? 【シエル】 「とにかく! ……翡翠さんが反転した原因である遠野君。あなたは何をしたんですか?」 「原因じゃないんですってば……。それに、もしそうだったとしても俺にはまったく心当たりが……」 【シエル】 「……それってつまり、どれが原因か断定できないほどいっぱいいろんな事をしたって言う事ですね?」 「違うってば!」 【秋葉】 「兄さん……怪しいですね……」  もしかして、秋葉に嫌われているんだろうか……?  本気で心配になってきた。 【シエル】 「う〜ん、でも、遠野君がここまで嘘をつくってことはないような気がします……」 「おぉっ! さすがわ先輩!」 【秋葉】 「……良い子ぶりやがりましたね……」 「志貴さんでも無いとすると……秋葉さん?あなたに心当たりは?」 「私が翡翠になにかするわけないでしょう」 「でも、女の嫉妬は怖いですからねぇ……」 「……何が言いたいんですか?」 【シエル】 「愛しのお兄ちゃんを取られた妹が嫁をいびる……」 「三流小説ですわね」 「登場人物が三流ですもんね♪」 【秋葉】 「……コロシます」 【シエル】 「やってみれ♪」  またも、一触即発……。  なんか、ぜんぜん話が進まないぞ。 「とにかく! 秋葉でもないんだとしたら……残るは一人!」 【秋葉】 「……七夜ですか?」 「昼間、俺や秋葉が学校に行っている間は翡翠といつも二人っきりでいるんだから、なんらかの事情を知っていてもおかしくないじゃないか!」 「……なるほど」 【シエル】 「遠野君、するどいですね!」  俺が鋭いんじゃなくって、あんたらがはなっから俺の事だけを疑ってたから気づかなかっただけだと思うのだが? 「でも……どうやって七夜を起こすんですか?」 「……たしかに困ったな。イイ感じにボロボロになっててそう簡単には起きてくれそうにないぞ……」 「……私が気付けを試して見ましょうか?」 「シエル先輩、気付け出来るんですか?」 「はい。昔とある人物から教わったやり方があるんです」 「よし! じゃあ、それを試してください!」 【シエル】 「はい♪」  シエル先輩って結構なんでも出来るんだなぁ……。  年の功ってやつ? □遠野家居間 【シエル】 「……えっと……ここらへんかな?」  えっと……何気に疑問形?  倒れている七夜さんのお腹のあたりを探っているシエル先輩の表情はいたって真剣な顔なのだが……それだけによけいに疑問形が不安を呼ぶ。 【シエル】 「いきますよ〜」  ポイントを探り当てたのか、シエル先輩は七夜さんの身体を床に横たえると…… 「ふんっ!」  どすっ!! 『なにぃぃぃぃぃっ!』  七夜さんのみぞおちに突き刺さるシエル先輩の拳。 「な、な、な、なにしてるんですかぁぁぁっ!」 【シエル】 「なにって……私が教わった気付けですけど?」 「ちがう!それは絶対に間違ってます〜!!」 「で、でも。ほら!七夜さんだって気がついたみたいだし……」 「……ぴくぴく痙攣しているだけのように見えますけど?」 【シエル】 「あはははは〜」  ごまかさないでください。 「……うぅん……」 【シエル】 「あ! 目を醒ましたみたいですよ! やった! 初めて成功しました!!」 「なにやら聞き捨てならない発言があったようですが……」 「きのせいです!」  力いっぱい否定するシエル先輩には悪いが、欠片ほどにも説得力が無かった。 「……うぅ……」 「七夜さん!大丈夫ですか?」 【琥珀】 「うぅ……志貴……さん?」  よかった……あまりに良い音だったから、心配していたのだが……どうやら至って無事のようだ。 「七夜……大丈夫?」 「私……」 「一体何があったんですか?」 「私……翡翠ちゃんに……」 「やはり翡翠か……」 【琥珀】 「ええ。朝起きて居間で会ったんですけど……いきなりバレットを連打しながら襲いかかってきて、ハートブレイクショットで動きを止められてどうしようもない私に、幻のデンプシーロール……そして、最後にチョッピングライト! ……ミラクルでした……」  見た目どおりだった……。 【秋葉】 「で、七夜……あなた、翡翠がそうなった原因を知らない?」 【琥珀】 「原因?」 「ええ。翡翠はおそらく、普段抑制されてたまりにたまったストレスが爆発した……反転衝動という状態なの」 「……そうですか……翡翠ちゃんは暴走しちゃったんですね……」 「ええ。普段が普段だけに、その暴走っぷりも……」 【琥珀】 「たしかに。普段何を考えてるのかわからない人ほど、いざという時に怖いって言いますからねぇ」 【秋葉】 「……気のせいかしら……七夜が言うとやけに重たく聞こえるわ……」  秋葉の引きつった声に、思わず頷く俺とシエル先輩。  だが、当の本人は不思議そうに首を傾げるのみ。 【琥珀】 「どういう意味ですか?」 【秋葉】 「いえ……こちらの話よ……」 「とにかく、翡翠がこうなった原因を探っているんですが……なにか心当たりはないですか?」 【琥珀】 「心当たりと言われても……」 「彼女がなにかに悩んでいたとか、苦しんでいたとか……そんな感じありませんでした?」 「翡翠ちゃんが何かに悩んでいた? ええ。そんな感じはありましたね。どうしたの?って聞いたらなんでもないって言ってましたけど」 「それはいつごろ!?」 【琥珀】 「えっとぉ……昨日の晩、私の部屋に来たときには普段どおりだったんですけど……帰る時にはなにか思いつめた感じでした……」  どうやら、犯人は七夜さんだったようですね……。  これで俺の無実は証明されたわけだ。 【琥珀】 「ち、ちがいますよ〜!」 「部屋にいるあいだ、翡翠は何してたの?」 「えっと……たしか漫画を読んでました」 「へぇ、翡翠が……」 「マンガですってぇぇぇっ!?」  これまでの翡翠ならマンガなんか読むような事は無かっただろうに……ちょっと驚いた俺だったが、その俺よりももっと驚いていた人物がいた。 「ど、どうしたんだ? 秋葉……」 【秋葉】 「マンガ……漫画……manga……。退廃的で残虐で、倫理の欠片もない無知で鬼畜で異常な変態的趣向者を量産し、今日の少年犯罪の一端を担った悪の情報源。マンガなどというものは子供をダメにするための●●どもの謀略です!」  秋葉のあまりにもすばらしい偏見に、俺はむしろ純粋に感心すらしてしまった。  どうやら、俺がいなくなってからの遠野の家での生活は彼女の心に大きな傷を残してしまったようだ……が……。 「秋葉……とりあえず、●●はダメ」  洒落にならないからさぁ……。  ってか、どうしてそんな大昔に廃れた隠語を知っている? 【秋葉】 「とにかく! マンガなんて汚らわしいものを読むから、翡翠がキレちゃうんです! キレる17歳です!  薬とかキメて親父狩りとかしちゃうんです!」 【シエル】 「はいはい。何か悪いものに憑かれちゃってる秋葉さんは放っておいて。確かに私もそのマンガが原因だと思うんです。いったいどういう内容だったんですか?」 【琥珀】 「どんな内容って……べつに中学生同士が生き延びるためとか口実をつけてやりたい放題暴れまわるような奴じゃないですよ?」  七夜さんは、けっこうシビアな解釈の持ち主のようだ。 「ごくごく普通の恋愛を題材にした少女マンガです」 「じゃあ、マンガは原因じゃないんですかね? そんな普通のマンガで、ぶっ壊れたりしないだろうし……」 【琥珀】 「……あっ! そういえば……」 「そういえば?」 【琥珀】 「その漫画を読んだあと、翡翠ちゃん……寂しそうな顔してました」 「寂しそう?」 「はい。なんだか、羨ましいっていう感じで……」「羨ましい……」  少女マンガ……。  ごく普通の恋愛……。  寂しそうな顔?  羨ましい?  一体どういう事なんだろう? 【シエル】 「……分かりました♪」 「え? 何がですか? シエル先輩」 「ふっふっふっ、謎は全て解けたんですよ、ワトソン君」  自信たっぷりのちょっとムカツク微笑を浮かべ、メガネをキラリと光らせるシエル先輩。  何がわかったのか知らないけれど、とりあえず名前を間違えるのは止めて欲しかった。 【シエル】 「翡翠さんが何に苦しんでいたのか、ようやく分かったんですよ!」 【秋葉】 「へぇ。ききたいわね」 「今ご説明しますよ。翡翠さんは志貴さんと付き合ってますね?」 「え、ええ……そりゃあ……まぁ」 「しかし……あまり恋人同士らしい事はしてないんじゃないですか?」 「恋人同士らしい事……?」  恋人同士らしい事……恋人同士らしい事……恋人同士でする事……する事といえば…… 「いえ、してますよ。それも結構頻繁に♪」 【シエル】 「はい下は結構です」  ザクッ! 「なんか、どこかでみたことのある剣っぽいものが刺さってるんですけど……それも割合<ズッポリ>と」 「……大丈夫です。遠野君仕様ですから、比較的死ぬ確率は高くありません」  遠まわしに言ってごまかしてるけど、それってへたしたら死ぬかもってことじゃ……。 【シエル】 「とにかく! 恋人らしい……デートとかそう言った事をしてないんじゃないですか?」 「う……そういえば……」  翡翠がもともと外に出ない人なもんだから、こっちもあんまり誘う気になれなくて……。 【シエル】 「やっぱり……。翡翠さんは、寂しかったんですよ。恋人らしい付き合いをしてくれない志貴さんに。そして、たまたま見た少女マンガの登場人物達を羨ましいと思った」 「で、でも!その程度で反転したりするのかな?」 【秋葉】 「妹アイアンクロォウ〜〜〜!!!」 「ぐぁぁぁぁぁぁっ!」 「兄さん! あなたは翡翠の乙女心をまったく理解していないんですね!」 「ぐぎぃぃぃぃぃっ!」 「翡翠は……ずっとずっと外界との情報を遮断して生きてきたんですよ! 恋愛事に理想や幻想を持っていても何らおかしく無いんです!」 「ぎひぃぃぃぃぃっ!」 「その気持ちをまったく理解せず、<その程度>だなんて……反省なさいっ!」 「ぎぃぃぃぃあぁぁぁぁぁぁぁぁ!」  言ってる事はもっともだ!  もっともだけど……とりあえず……。  割れる! 割れる! 頭が割れてしまう! 頭が割れて、中から<なにか>が飛び出してしまうっ!  説教は腕を離してからにしてくれぇ! 【シエル】 「秋葉さん。その辺で許してあげてください。たしかに遠野君は無神経で鈍感で、割合腐れ外道で、可愛い顔して一番悪い子ちゃんなんですけど、それ以上やると死んじゃいますよ」 【秋葉】 「兄さんは一度くらい死んだほうが良いんです!」  なかなか無茶を言ってくれる……。  というか、実際に一度死にかけてる身なんだけど、その辺は考慮に入れてくれないんだろうか? 【シエル】 「とにかく、これで原因がわかりました。後は翡翠さんを元に戻すだけですね」 【秋葉】 「どうしたらいいのかしら?」  俺の頭を握り(潰し)ながら、秋葉がたずねる。  どうやら、俺はしばらくこのままのようだ。 【シエル】 「簡単です。翡翠さんの願望を叶えてあげればいいんです」 「翡翠の?」 「ええ。翡翠さん自身に何がしたいのかを聞いて、それを叶えてあげれば良いんですよ」 「なるほど……」 【琥珀】 「でも、翡翠ちゃん……寝てますけど?」  そうだ……翡翠は今、秋葉の強烈で無慈悲な一撃によって、昏倒しているのだった。 【シエル】 「起こしましょう」  そう言って拳を固めるシエル先輩。 「ちょっとまてぇぇぇっ!」 「なんですか?」 「シエル先輩の手を煩わせる事はありません。俺が何とかしますよ。……だから秋葉……とりあえずそろそろ手を離して?」 【秋葉】 「あら、気づきませんでした」  あまりにもジャストヒィットしているので……と言い訳しつつやっと手を離してくれた秋葉。  ただ、ジャストヒィットしている原因が骨格が変形してしまった所為だとは気づいてくれていないようだ。 「でも、どうやって起こすんですか?」 「えっと……」  とにかくシエル先輩の魔の手から翡翠を守るのに必死で、実際にどうやって起こすのかは考えてなかった……。 【琥珀】 「あの……私のつくった気付け薬使いますか?」  そういって、どうやったらそこまで怪しく出来るのですか?と聞きたくなるほど危険な香りのする茶色い小瓶をポケットから取り出す七夜さん。  とりあえず、悪意は無いのだろうが、それだけに恐ろしい。 「いえ、結構です」  俺はきっぱりと断り……倒れている翡翠の前に跪いた。  そして、ペチペチと頬を軽く叩く。 「お〜い、翡翠〜。朝だぞ〜」 「そんなので起きるわけが無いでしょう」  たしかにそのとおりだ……。  しかし、だからと言ってシエル先輩や七夜さんに任せるわけにもいかんだろう……。 「お〜い……起きろ〜」 「………」 「……しかたないな……」  まったく起きる気配の無い翡翠に、俺は仕方なく裏技を使うことにした。 「あ、七夜さんが高そうな壷を拭こうとしてる……」 【翡翠】 「姉さんはそれに触るなぁぁぁぁぁっ!!!」  俺の裏技に、翡翠はガバチョと跳ね起きてくれた。 【琥珀】 「志貴さん……翡翠ちゃん……酷いです……」  泣きそうな声の七夜さんだが……事実だけに誰もフォローをいれようとはしなかった。 【翡翠】 「ぅん……ここは……?」 「おはよう、翡翠……」  状況がわからないのか、キョロキョロとあたりを見まわす翡翠。  そしてしばらくした後、秋葉を視界に捉えた。 【翡翠】 「……秋葉ぁぁぁっ!」  ぐぁっ! そういえばぶっ壊れてたんだった。 「コロス!」 【琥珀】 「翡翠ちゃん、女の子がそんなこといっちゃダメですよ」  ともすれば血の雨が降りそうなこの状況で、あっさりとピンとのずれたツッコミをいれる七夜さん。 【翡翠】 「秋葉ぁぁぁ」 【秋葉】 「翡翠、ちょっと落ちつきなさい」 「そうだよ、翡翠。君に聞きたいことがあるんだ……」 【翡翠】 「……聞きたいこと?」  なんとか暴れるのを止めてこちらの声に反応してくれた翡翠。  なんだか、野生の獣を調教しているようだった……。 「ああ。翡翠、君はなにかしたい事があるんじゃないのか?」 【翡翠】 「……したい事?」 「そう。いままでやりたくてもなかなか言い出せずに、心の奥にとどめていた事……」 【翡翠】 「……ある。……私は……志貴に私の手料理を食べてほしい! それと、デートもしたい!」 「……ほっ」  今の翡翠の状態から、もっとひどい事になるんじゃないかと思っていが……。  たしかに翡翠の料理はあまり誉められたものではないが、だからといって『食べたら死ぬ』というほどのものでもないはずだ。  それに、デートにいたっては俺のほうから頼みたいくらいだ。 【翡翠】 「……うふ……うふふふふ」 「え?ちょっと……翡翠ちゃん?」  なぜ、外でやったら職質されても文句言えないような怪しげな笑いを? 【翡翠】 「……台所で華麗に料理を作るあたし……そしてその足元にひざまずく志貴……」 「なんですと?」  怪しげな笑みを浮かべる翡翠。その目にはすでにシキもビックリなほど狂気が浮かんでいる。  そして、彼女の妄想が始まる。 □遠野家のキッチン 「ほら、志貴。もうちょっと待ってなさいね?もうすぐ出来あがるから」 「あぁ、翡翠様!こんな汚らわしいわたくしめのためにそのお美しい御手をお汚しになられるなんて……」 「フフフ、いいのよ。志貴。あなたはあたしの可愛い犬なんだから。ペットのエサを用意するのは飼い主の仕事よ」 「あぁぁぁっ!そうです、私は犬です!あなた様の忠実なペットですぅぅぅっ!」 「うふふ、可愛いあたしの子犬ちゃん♪ ほら、できたわよ。お食べ」 「はいぃぃぃ。ありがたく頂かせて頂きますぅ!」 「あら!ダメよ!!」 「え?」 「犬はご飯を食べるのに手を使ったりしないわ」 「あ……」 「さぁ、どうすれば言いか……分かるわね?」 「は、はいぃぃぃ……。はぐはぐ……」 「ぁあ! 志貴……あなたはなんて可愛いペットなの!!」 □遠野家居間 「………」 「………」 「………」 「………」 【翡翠】 「あぁぁぁぁ〜♪」  トリップしつづける翡翠……。  俺は失神しそうになるのを堪えるので必死だった。 「翡翠……それ……やるのか?」 【翡翠】 「必然!」  当然……すら通り越して、必然ときましたか……。 「秋葉ぁ〜」  半泣きになりながらも、秋葉に助けを求める。厳しい倫理観を持つ彼女なら、こんな妄想を実現する事はけして許さないだろう。 【秋葉】 「……翡翠……」 【翡翠】 「……なに?」 【秋葉】 「……ビデオ撮影は有りかしら?」 「なにぃぃぃっ!?」  秋葉ってそういうキャラだったか!? 「七夜さん!たすけてっ!」 【琥珀】 「……ジュルリ☆」  こっちもかぁぁぁっ!? 「遠野君……」 「あぁ! シエル先輩!」 【シエル】 「遠野君が犬……犬といえばペット……ペットと言えば首輪……首輪と言えば……キャっ♪(はぁと」 「うわぁぁぁっ! 先輩までェっ!」 【アルクェイド】 「あたしも見たい〜!」 「タマまでェェェっ!」 【アルクェイド】 【アルクェイド】 「だからタマじゃないにゃ〜〜〜〜!」  絶体絶命ってのはこのことだろう。  四人(+一匹)の女たちが俺を囲みながら怪しい笑みを浮かべている。  逃げ場は……ない。 【翡翠】 「ぐふふふ……志貴……」 「た、たすけて……」 「志貴、あなたが悪いのよ……」 【秋葉】 「兄さん……兄さんが翡翠に構ってあげないから……」 【シエル】 「遠野君……自業自得ですね」 【琥珀】 「志貴さん……翡翠ちゃんの苦しみ、味わってくださいね♪」 【アルクェイド】 「志貴〜……なんか良くわかんないけど、とりあえず楽しませてね♪」 「……あっ!あんなところに未確認飛行物体が!」 【シエル】 「……そんなのに引っかかるヤツはいないですよ……」 【秋葉】 「……兄さん。覚悟してください」 「う……うわぁぁぁぁぁっ!」 【翡翠】 「うふふ♪ 食事の後は、お散歩(でぇと)ですからねェ♪ 私の可愛いペットちゃん♪」 「たすけてぇぇぇぇぇぇぇぇ」 □志貴の部屋 「ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」 「あ……」  眼が醒めると……そこは見なれた俺の部屋だった。 「あれ?」  もしかして……さっきまでのは夢? 「志貴様……お目覚めになられたんですか……」 「あ……翡翠……?」 【翡翠】 「はい……おはようございます」  翡翠だ。いつもどおり、無表情……いまはちょっと不機嫌そうな顔をしているが……な翡翠だ。 「……夢オチってか……」  かなりサブイな……。 【翡翠】 「何がですか?」 「あ、いや。こっちの話……」  まぁ……なにはともあれ、助かった。  あのままだったら、新しい世界に旅立ってしまうところだった……。 「……そうですか……。秋葉様が居間でお待ちになられていますよ」 「そうか……」  時計を見ると七時半……こりゃ、小言を言われるのは覚悟しなきゃな……。 「わかった。すぐ行くよ」 【翡翠】 「はい。では……」 「ああ……って、ん? 翡翠……後ろになにもってるんだ?」  今まで気づかなかったが、翡翠は手を後ろに回している。  なにやら隠している……そんな風に。 【翡翠】 「……気のせいです」 「いや、気のせいじゃないだろ……。何かかくしてるのか?」 「気のせいです」 「………」 【翡翠】 「気のせいです」 「……そうか……」 【翡翠】 「そうです」  怪しい……ひたすら怪しい……。  なんたって、こちらに背中を見せないように後ずさりしながらドアの方へ向かっているのだから。 【翡翠】 「……それでは、失礼します」 「……ああ……」  翡翠がドアを開けて外へ出ようとする……そのタイミングを狙って俺は、ドアの向こう側を指差した。 「あっ! 七夜さんがこの家で一番高い花瓶を掃除しようとしてる!」 【翡翠】 「姉さん、ダメェっ!」  夢の中同様、見事に引っかかってくれた……そんなに心配なのだろうか? ……翡翠が、ドアの向こう側へ身体を向ける。当然、背中がこちらを向く。  そして、ついに翡翠が隠していたものが見えた。 『ミミズでも解る睡眠洗脳入門』 「……うぐぅ……」 【翡翠】 「……志貴様……嘘つきましたね? 姉さん、どこにもいないじゃないですか」 「……あ、ああ。悪い」 「………」 「………」 「………」 「………」 【翡翠】 「……志貴様。……見ました?」 「……ミミズはさすがに無理だと思う……」 【翡翠】 「……そう、ですか……フフフ」  みられたのならしかたありませんね、と言うように怪しげに笑う翡翠。  何故だろう……今自分が蜘蛛の巣に捕らわれた哀れなチョウチョのように思えた。  どうして俺はこんな生活をしているんだろう?あの有間の家にいた頃の平穏は夢だったのだろうか?  わからない。でも…… 「……えっと……今度のお休みにでも、どこか遊びに行こうか……」 【翡翠】 「……いいんですか?」 「ああ……お弁当、作ってくれヨ……」 【翡翠】 「……はい♪」  そう言って笑った翡翠の顔は本当に綺麗だった。  これが見られるなら……囚われのチョウチョも悪くない……かな? 「……フフフッ、途中で起きられたから失敗したかと思いましたけど……上手くいってよかったです♪」 「………」  夢……それは都合の良いもの。  ただし。  誰にとって都合が良いかは……知らない。